南高周辺の歴史的風景② ~赤穂浪士と松平松山藩~

2019年4月3日 08時28分

 南高から徒歩1分の所にある興聖寺〔臨済宗妙心寺派〕。ここには、赤穂浪士2名〔木村岡右衛門、大高源吾〕のお墓と辞世の句碑、二人を介錯した松山藩士 宮原久太夫のお墓があります。まずは赤穂事件についてまとめます。

【赤穂事件】

 18世紀初頭の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入った事件を指す。この事件をもとにつくられた人形浄瑠璃・歌舞伎が『仮名手本忠臣蔵』で、のち小説や映画などにも脚色された。

【PHOTO】

①赤穂浪士の墓②木村岡右衛門 辞世の句碑③大高源吾 辞世の句碑
④ 介錯人 宮原久太夫の墓⑤蒲生忠知供養碑⑥蒲生公頌徳記念碑

 

【辞世の句:木村岡右衛門〔漢詩に秀で、討ち入りの際に兜頭巾の裏に縫い込んでいた〕】

 身 寄 浮 雲 滄 海 東 (身を寄す浮雲滄海の東)

 久 衍 恩 義 世 塵 中 (久しく恩義を衍〔あや〕まる世塵の中)

 看 花 懟 月 無 窮 恨 (花を見月に対して恨窮り無し)

 散 作 暁 天 草 木 風 (散じて暁天草木の風を作る)

 

【辞世の句:大高源吾〔茶道と俳句に優れていた〕】

 梅で呑む 茶屋も有べし 死出の山

 

【その他】

① 介錯を務めた宮原久太夫は、俳人としての大高源吾を敬愛していたため、介錯の後に松山藩を去り、酒屋を経営したと伝えられています。

②境内には、加藤嘉明の転封後に松山藩主となった蒲生忠知の供養碑等もあります。